あるトランスジェンダーの世界Marion.K

「女」を割り当てられて育ち「男」のように生きているあるトランスジェンダーの内面を記します。

民俗学との出会い

姫田忠義らが記録した映画『越後奥三面』(民族文化映像研究所)を観た。不思議なことに、山で生きるために食料を生産し、道具を作り、祈る人々の暮らしに想像を膨らませるにつけ、自分がトランスであることを意識させられる。これは意外なことだったが、実は私がこれまで土地の習俗を避けてきた理由はそこにあるかもしれない

 

思えば「自由で平等な個人」という理念が私を支えてきたのだった。土地の習俗に従う生き方と対極にある生き方だ。当たり前のように課せられてきた性役割が、「自由で平等な個人」という理念の下では鮮やかに粉砕される。私は自信を持って「性役割なんぞ糞喰らえ!」という心持ちで生きていくことができる。そして自分の意志次第でトランスすることが可能である。この思想が私にどれだけの希望を与えてきたか、その大きさに今更思い至った。

 

少し前まで私は、注射さえ打てば埋没できて、自分がトランスであることをそれほど強く意識せずに済んできた。曲がりなりにも個人主義的で、西洋医学が浸透している社会に生きているおかげだ。もちろんトランスであるせいで不便なことがあり困ったり憤ったりはするのだが、「自由で平等な個人」という理念を強く持っている限りそれはアイデンティティを揺るがすような深刻な問題ではなかった。しかしこの都市生活の外の世界を想像すると、自分の身体がどうにもならない絶望感を思い出す。

 

古い習俗の中で生きる人々には、どうしても自分を重ね合わすことができない。それはおそらく、当たり前のように性役割を担っているように見えるからだ。実は彼らの中にもトランスパーソンが存在していたかもしれないのに、その存在が「発見」されるまでの民族学研究では、トランスパーソンは無視されてきたという。見えなかったのだ。だからトランスパーソンの生活に焦点が当たることはない。

 

圧倒的な隔たりのある他者を前に民俗学はどう向き合うのか、私はまだ知らない。これから学んで考えたい。

 

最後に、姫田忠義の映画はすごく面白いのでお勧め。自然の中で生きる人間の知恵が長い時間をかけて洗練され、見事な体系が築かれている様子を知ることができる。