「被害者意識」は「他責」ではない
「被害者意識」は「被害妄想」「他責」と結びつけた形で侮蔑的に使われる。そのせいで、「被害」を受けた(かもしれない)と思ったとしても「自分が気にしすぎて被害妄想をしているのではないか」と考え、それを「被害」として語り難くなっている。現実には「被害」も「加害」もある中で被害者にとって辛い状況である。
「被害者意識」が侮蔑的に使われるのは、そこに「他責」の意味を読み取るからだろう。「被害者意識」を持つのは客観的に見て「被害」ではないのに被害を受けたという意識を持って加害者を責め、自分の落ち度を認めようとしない浅ましい行為だ、というように。
しかし被害を受けたという意識と加害者を責める意識とは別である。極端な例を出せば、地震で被害を受けて「被害者意識」を持つことはあっても地震自体の責任は誰にも問うことができない。人間同士の加害と被害には主体性という契機が伴うので完全に自然現象のように捉えるのはもちろん適切ではないが、「被害を受けたという意識」が必ず「加害者を責める意識」に結びつくとも言えないだろう。
「人生ビリヤード理論」という考え方がある。ボールが点在しているビリヤードテーブルの上で、衝撃を与えられた一つのボールは移動して他のボールにぶつかる。するとぶつかられたボールも動き出し、また別のボールにぶつかる。ぶつかり合いが連鎖する。自分にぶつかったボールは、それ以前に別のボールにぶつかられたからこそ自分にぶつかる。直接自分にぶつかってきたボールだけのせいにはできない。
人間の行為には主体性という契機がある一方で「人生ビリヤード理論」的な側面もある。何らかの被害者であった経験が人を加害に向かわせたと考えられるケースはよく耳にする。「加害と被害があった」ということと「加害者に全責任がある」ということとは同義ではない。場合によっては加害者のいた環境、被害者の責任も問い得る。
「自分が気にしすぎて被害妄想をしているのではないか」と苦悩する人はどうしたら良いのか。「被害者意識」を「他責」と切り離し、被害体験をひとまずその人にとっての事実として認めることだ。そしてケアをする。加害者の責任を問うのはその後で良い。加害者と被害者、そして関係する人々が一緒に加害者の責任を問う過程を経て、加害/被害の発生をできるだけ防ぐ方法を考えて実践していく。これがお互いに他者を尊重して共に生きていくということの意味だ。
ニーチェからのエール
ルサンチマンに呪縛されて身動きが取れなくなりそうになることがある。ニーチェの思想から、そういう人へ向けたエールを汲み取ることができる。エールの部分を取り出してみると次のようなものだろう。
人生には到達すべき目標も達成すべき目的も果たすべき義務もない。人生は、ある真理や正義に自分を適合させるような在り方ではなく、個々の人間がそれぞれ自分の生を充実させようと試行錯誤する冒険だ。それは、現在の満たされなさを来世や将来の理想社会において取り戻そうとするのではなく、今ある現在の中から深い喜びを汲み取れるように自分なりに良いやり方を本気で考えて実行することだ。
参考:『実存からの冒険』西研