あるトランスジェンダーの世界Marion.K

「女」を割り当てられて育ち「男」のように生きているあるトランスジェンダーの内面を記します。

子宮卵巣摘出手術@ヤンヒー病院 : 診察─手術─入院─退院─再診レポート

2023年11月にタイ バンコクヤンヒー病院にて子宮卵巣摘出手術(内摘/SRS)を受けました。診察─手術─入院─退院─再診の間に起きた出来事を記録しました。何が参考になるかは分からないのでとりあえず出来事を細かく記録しています。これから手術を受けようと考えている方の参考になれば幸いです。

アテンド会社は利用しませんでした(所謂自己手配)。病院の予約、旅の計画などについては別記事に書こうと思います。

手術前に精神科医2名の診察があります。手術後は4泊入院し、手術後8日目に再診でした。私はタイ語が分からないので英語で乗り切るつもりでしたが、病院に専属の通訳者がいたお陰で難なく過ごせました。私の英語の会話能力は、日常会話がなんとかできる程度なので特に精神科の診察は通訳者がいなければ苦労したと思います。

手術時点で私はホルモン注射を約8年間継続していました。乳腺摘出は8年前にしました。「自認」する性が自分でよく分からないということ、抗鬱薬を服用していたことがハードルになり、精神科医に追究されましたが、結局手術は可能と判断されました。

 

診察(手術前日)

20231107

病院からのメールにTime for registration 7:30am とあるので7:20頃を目指して病院に向かった。病院のすぐ北には屋台の集まりがあり、既に営業している。


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南北に通る大通りに面した入り口から病院の建物に入った。 正面のカウンターの人が手招きするので印刷してきたメールを見せるとあちらへと左手を指された。刺された方へ進むとinternational counterと書いた 看板が吊るしてある。突き当たりにregisterという表示のあるカウンターがある。 女性2人が座っている。 メールを見せた。 英語で「英語を話すか」「中国人か日本人か」と聞かれた。 日本人と答えると「通訳者が8時に来るのでしばらくお待ちいただきます」と言われた。 登録のためにパスポートの提示を求められた。 コピーを取られた。日本語で書いた同意書を渡され 英語で記入するように言われた。 書いて渡すと 再び 通訳が来るまでで待つように言われた。どの人からも丁寧な印象を受ける。日本語通訳がいると思っていなかったので助かったと思った。不安要素の大きなものの一つが、英語で精神科の問診を受けなければいけないことだったからだ。

8時5分頃10階にお連れしますと スタッフに案内される。 病院全体に 良い匂いが漂っている。 がらんと 広い待合室に着いた。「日本語の通訳者が来るまで座ってお待ち下さい」と言われて座った。

通訳のIさん━お名前は後で伺った━がやってきて、私が通訳です、と紹介された。GID診断のための問診票と同意書を渡され、個室で書くように言われた。日本語で回答して良いという。自分の性別、体に関することなどを記入。例えば「あなたの性別と反対の遊びをするのを好みましたか」「自分の持つ性器を不快に感じますか?」など。ところどころ質問の意味がわからないが推測して書いた。鬱があるかどうかなども回答。絵を描く心理テストもある。書き上げてIさんに渡した。この日はずっとIさんが付き添ってくれた。もう一人、日本語を話す方がいた。Iさんは私服だがこちらは制服。後で伺ったが、Nさんといい、私の正式な通訳担当らしい。しばらく待つと精神科医との面談をすることになった。精神科医若い女性の先生。「心が男性かどうか」を聞かれて困る。「女性ではない何か」と言ったけれども、伝わってない様子。医師は、人は必ず自分を男性か女性のどちらかを自認しているという前提に立っているようだ。「迷っているように見える」と言われたので「迷っていないが説明が難しい」と言った。「勇気を持って男性のように振る舞ってください」と言われた。「はい」と答えた。彼女はいるか、どれぐらい付き合っているか聞かれた。男性のパートナーのいる人は手術を受けにくいのかもしれない。抗鬱剤を服用していたのでそのことについてもかなり質問があった。鬱病と診断されたのか、なぜ飲んでいるのか、最近気分が落ち込んだのはいつか、その主な原因は何か、などなど。手術には心の準備が重要ですと言われた。鬱のせいで手術が受けられないのではないかと不安になった。タイに行く直前に気分が沈んでいたので正直に話す(別記事にする予定)。その原因は心の問題なのか、抗鬱剤を飲んでいたときはどんな気分だったか、落ち込んだ原因は抗鬱剤を飲まなかったからなのか心の問題なのか。自分で原因を確信できるものではないので、しばらく考えた。服薬制限も大きな要因の一つだと思ったので「薬かな」と答えた。結局「手術は受けられると判断しました」と告げられた。不安なこと、聞きたいことはないか確認された。テストステロンはすぐに接種して良いのか尋ねると、手術から1ヶ月後にするように言われた。診察終り。案内されて会計を済ます。精神科医の診断の代金はここで一旦支払うが、パッケージに含まれるので後で戻ってくるという。退院の日に今日受け取った領収書を提示するように言われた。予定では明日までの2日間でもう一人の精神科医、執刀医と面談となっていたが、今日中に3人共面談しましょうということになった。血圧測定を2回した。次は執刀医A先生と面談。9日の予定だった手術を8日にしても良いかと聞かれた。手術から帰国までの時間はなるべく長いほうが良いと思ったので、良いと答えた。服薬歴、帰国予定などを聞かれた。そのまま内蔵の検査。A先生が外から膣の中を見る。めちゃくちゃ痛くて思わず「痛いです!」と言うと「リラックス」と言われた。歯を食いしばって耐えた。16日に再診することを告げられた。ペインフリーを使うか確認された。使うことにした。最後に食事をしたのはいつか尋ねられた。今朝と答えると、それでは今日は血液検査できないので、明日午前0時以降飲食せずに来てくださいと言われた。またこちらから聞きたいことはないか確認される。一日早く退院することになるので、入院の日を一日伸ばせるか聞いた。看護師が24時間待機している部屋に泊まるなら5000バーツ、看護師のいない部屋なら1000バーツで泊まれるという。1000バーツの部屋に泊めてもらうことにした。面談の後はPCR検査。日本と同じ、鼻の奥に棒を入れて検体を取られた。会計をした。明日の手術代も今日支払うか明日払うか聞かれた。今日支払うことにした。また、領収書は一時的なものなので退院のとき正式なものに変えてくださいと言われた。12時ぐらいに解放された。今日はまた16:20からもう一人の精神科医の診断を受けるため、16:10頃インターナショナルカウンターに来るように言われた。

観光しようかと思ったが、屋台のご飯を買ってホテルで食べたら眠くなったのでホテルで休むことにした。16時頃インターナショナルカウンターに着く。日本語通訳者に会いたい、と伝えるとすぐ来てくださって案内された。通訳のIさんに、「勇気を出して頑張ってください」と励まされた。二人目の先生も若い女性。今度は、子供の頃のこと、二次性徴をどう感じたか、を中心に聞かれた。また鬱病ではないのか、不安の原因は何かと聞かれる。初めて一人で海外に行くのでそれも不安だったと伝えると、それは普通のことですと言われた。今回は鬱について深く追及されず、手術は可能と判断したと告げられ終わった。支払いを済ませて今日はこれで終わり。明日の予約表を受け取った。

 

手術当日

20231108

7:45ぐらいにインターナショナルカウンター着。通訳者はまだ来ていない。予約表を求められたので渡した。しばらくすると5階に案内され、待つ。血圧測定する。通訳のNさんが現れた。トイレを借りたいと申し出て借りた。タイのトイレには局部を洗うシャワーが備え付けてある。シャワーを使おうとしたが勢いが強すぎてズボンにかかった。トイレットペーパーでなんとか拭き取る。出るとすぐに案内されて、執刀医A先生が手術のための印をつけた。通訳のIさんも現れた。少し待って同意書にサイン。服用している薬の提出を求められた。荷物を持って5階の病室に入った。ベッドは一つ、テーブル、シャワー、トイレ、ベランダがある。20㎡ぐらいありそうな広々とした部屋。


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ここで、術後2日間は起き上がってはいけないこと、術後食事は禁止されていること、持参した薬は服用しないことを指示された。手の甲から採血された。おそらく点滴のための針を指したまま固定される。痛い。病室内で一人の女性スタッフが毛を剃る。通訳者たちは部屋にいるがカーテンで仕切られて見えない。電動剃刀で下腹から局部の毛を剃られた。くすぐったいが痛くはない。病室内の小さな金庫の使い方を教えてもらった。ピンクの液体の入ったボトルを見せられ、これで身体を洗い、手術服を着るように説明された。


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麻酔の先生を待つ。その間に通訳者のお名前を伺う。先輩がNさん、後輩でインターンのIさん。ここまでほとんどの通訳はIさんがしてくださっている。インターンなのでそれを先輩が見守るのだという。アニメのBLがお好きだという話を聞く。また、日本人の場合FTM手術はヤンヒー病院が有名で、MTFにはガモン病院が有名だという。しばらくして中年女性の麻酔の先生がやってくる。それにしても女性が多い。病院には沢山のスタッフがいるが、ここまでで出会った男性はPCR検査した人、執刀医、インターナショナルカウンターのスタッフのみ。これまで全身麻酔で異常がなかったかなど確認。このとき10時。手術は12時頃だという。スタッフが呼びに来るまで、身体を洗い待つように言われ、すべてのスタッフが退出。シャワーを浴びた。換気が効いていて寒い。ピンクの液体はドロドロしていて、シャワーで流しても身体がヌルヌルする。手の甲を返すと針の刺さったところが痛い。上がって手術服を来て待つ。10:30頃スタッフが一人やってきて点滴を繋ぐ。なんの点滴なのか分からない。


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動きにくいが暇なのでこの記録を書いたり本を読んだりして過ごした。11時すぎ、病室の電話がなった。スタッフがドアを開けて入ってきて電話に出た。受話器を渡されて出ると、Nさんだった。手術は14:30に変更とのことだった。

14時頃担架が部屋に来た。オペ室まで運ばれる。オペ待ちの人の待機場所のようなところで寝たまま待つ。部屋が冷え冷えしているがタオルケットをかけてくれたので寒くない。スタッフが来てこれから受ける手術は何か、名前、生年月日を確認された。14:40頃オペ室に移動。さらに部屋が冷えている。オペ台に自分で移った。血圧測定され腕を固定された。男性の麻酔科医が自己紹介し、執刀医の名前を確認。深呼吸するように言われる。酸素マスクを装着。3時間眠ります、2分以内に眠りに入ります、と言われ、点滴の針から麻酔が入った。ものすごく痛い。すぐに朦朧として眠りに落ちた。

 

うっすら意識が戻ったが、朦朧としている。全身が震える。下腹が痛い。目をつぶったまま全身がガタガタ震える。ベッドに身体を移された感覚がある。左手に携帯、右手にボタンのついた器具を持たされる。ボタンを押すとペインフリーの薬が出ると言っていた気がする。またすぐに眠りに落ちる。何度か意識が戻った感じがするが朦朧としていて時間感覚が無い。病室の時計が見えた。20時頃。看護師が10分に一度程度やってきて、尿道カテーテルを調整したり点滴をいじったりしている。完全に意識が戻ったのは22時頃。心配してくれていた人たちにメッセージを送った。腹の痛みはかなりマシになっている。震えもない。看護師が来た時に右手のボタンを押すと何が起こるのかを確認した。やはり 痛い時に押すと薬が出て眠くなるという。しかし 痛くない時に押すとめまいのような症状が出るという。結局ペインフリーのボタンは一度も押さなかった。尿道カテーテルの調整がうまくいっていないのか看護師が代わりばんこにいじっている。

 

入院中(手術後1日目)

20231109

午前2時頃尿意を感じる。トイレに行きたいが自力で動けない。しかし 看護師を呼ぶ方法がわからない。たまたま 点滴が残りわずかだったのでそれの交換に来るのを待つ。交換に来た看護師にトイレに行きたいと伝えたが 尿道カテーテルがついているからだめだという。カテーテルがついているのに尿意があるのは不思議だった。気のせいなのかと思い しばらく 我慢することにした。しかし 尿意はますます強くなる。午前4時頃 我慢しきれず その場で出るか試してみる。なんと カテーテルを通さずに普通に尿が出てしまった。尿意がまだあるが 出し切らずに看護師を呼ぼうと思った。声を出して呼んでも届かない。携帯でアラームを鳴らしてみたが 届かない。 病院に電話してみようと思って携帯で番号を調べてかけてみるが繋がらない。切羽詰まって ベッドの周りを丹念に見回すとコードがある。 もしやと思って コードの先を辿ると ナースコールのボタンらしきものがあった。 急いで押すとすぐにインターホンで返事がある。 看護師 2、3人かすぐにやってくる。Google 翻訳を使って「尿が漏れました 尿意がまだあります」と伝えた。 すぐに確認されるが問題ないという。 尿道カテーテルを調整される。 いつのまにか尿意はなくなった。看護師が初めて水を飲ませてくれる。 一口だけ飲んだ。

6時頃 看護師が来て手術した部分に保冷剤を当てた。9時頃 体を拭かれる。10時頃 執刀医A先生が通訳のNさんと一緒に診察に訪れた。 明日ドレーンと点滴を外すという。 少しずつ歩くように言われた。 ご飯はすぐ持ってくるという。アフターケアについて 日本語で書かれた パンフレットを渡された。 2日間 起き上がってはいけないことなどが書いてある。

11時頃初めての食事が運ばれる。 コーンスープ、ジュース、ムース(?)。


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お腹は空いていたが コーンスープがかなりの量があり ムースは残す。 ジュースはアセロラのような味がする。 12時過ぎに看護師さんが片付けにやってきて ムースが残っているのを見つけ 冷蔵庫に入れてくれた。食事をしたからか胃腸が動くのを感じる。 下腹に動きがあると痛い。看護師さんが何度かやってきて 飲み薬を渡された。16時20分頃再び 食事が運ばれるまでひたすら寝たり 携帯をいじったりして過ごす。 暇だ。 夕食はカルボナーラ、サラダ、フルーツ、ジュース 2杯。


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寝たきりだったのでお腹はそれほど 空いていない。 とりあえずサラダとフルーツとジュースだけいただく。そういえば 食事を 和食か洋食か タイ料理か選ぶように言われて タイ料理と言ったはずだが、今のところ全て 洋食だ。腸が動いて痛い。屁が出そうで出ない。痛いので踏ん張ることはできない。尻に体重がかかって痛くなってきたので横向きになって本を読む。18時頃、点滴の機械を設定しに来た看護師さんに、夕食に出たオレンジ色の果物が何か尋ねた。パパイヤだという。タイに来て食べたかったフルーツの一つ。

そういえば 初日に戸籍の性別を尋ねられ 女性と答えると書類が修正され 名前の前にミスがつけられた。それ以降どの書類も 腕につけられたタグも部屋に掲示してある名前の前にも ミスがつけられている。明らかにミスジェンダリングだが、意外とそういうところは気にしていないようだ。

夕食のカルボナーラをほとんど食べなかったので20時頃になってお腹が空いてきた。 我慢する。 21時前に飲み薬を持ってきた 看護師さんに歯を磨きたいと伝える。 しばらくして血圧を測るついでに 歯ブラシとコップと水を吐き出す容器を持ってきてくれた。

じっとしている分には痛みはあまり感じない。 しかし 鼻をかもうとして腹に力を入れると痛くてかめない。

 

入院中(手術後2日目)

20231110

6時前に点滴と尿道カテーテルが取り除かれた。 どちらも痛くなかった。トイレに行きたい時は 看護師を呼ぶように言われた。暑い?と聞かれてNoと答えたが暑いのだと思われてエアコンの温度を下げてくれた。寒い。次来た看護師さんにお願いして温度を上げてもらった。しかしまだ寒い。7時15分頃 朝食が運ばれた。寝たきりなので食欲がない。 しばらく寝て 8時頃 ようやく起きた。ご飯を食べ始めたところで体を拭きに来た。 前回は寝たきりで拭かれたが今回は ベッドから起きて椅子に座るように言われた。 椅子が冷たい。 病院を脱がされ全裸で待つ。 顔だけ 自分で拭く。 濡れたタオルで身体を拭かれる。寒い。切ったところが痛む。乾いたタオルで拭かれてまた病衣を着る。シーツが取り替えられている。ベッドに戻る。また部屋の温度を上げてくれるように頼む。

朝から何度か屁はでているが、まだ踏ん張れない。 便意が来るのが怖い。 咳払い もまだできない。首と肩が痛い。

9時半頃 執刀医のA先生と通訳のNさんと一人のスタッフがやってきた。痛むかどうか眠れたかトイレに行ったか などを質問された。 立って歩くと痛むこと 昨日は眠りが浅かったこと トイレにはまだ行ってないことを話した。ゆっくり歩くように言われた。水をたくさん飲むように とも言われた。 持ってきた 睡眠薬を使ってもいいという。A先生たちが出ていってすぐにまた一人のスタッフが入ってきてトイレに行きますよと言われた。 尿意は感じなかったが 従う。 便座に座るとスタッフはどこかへ行ってしまった。 尿が出し終わる時に少し痛みが走った。 血は出なかった。 自力でベッドに戻った。 するとすぐに別のスタッフがやってきてトイレに行きましょうと言われた。 今行ってきたところだと言うと 少なかったか 多かったかと聞かれた。 普通だったと答えた。何かあったら ボタンを押して呼ぶようにと言ってスタッフは出て行った。それから昼までは薬を飲むとき、血圧を測るとき、部屋の掃除のときにスタッフが来ただけで、ほとんど一人で部屋で過ごす。尿道カテーテルをしていて膀胱が縮んだのか急に尿意が頻繁に感じられ、一時間に1回ぐらいトイレに行く。だんだん体の動かし方が分かってくる。朝残したご飯を食べた。12時前 昼ご飯が運ばれた。 また洋食である。 もう洋食しか来ないものと思った方が良いだろう。 鮭の料理。今までで一番美味しそう。


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ご飯を食べるにはベッドの上 よりも 机の方が食べやすいので 机に移動して椅子に座って食べた。 しかし 腹がそれほど減っていないので 少し食べただけでそのまま 椅子で本を読むことにした。 13時過ぎにおやつが運ばれてきた。


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ほとんど食べていない昼ご飯をさしてfinish?と聞かれたので YES と答え、下げてもらう。ひたすら 一人で時間をつぶす。 16時半頃に 夕食が運ばれる。大きなお肉とサラダとフルーツ。 謎のジュース。 おいしそうだが 食べきれそうにない。


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大きな お肉以外を食べ 謎のジュースを飲む。 ジュースの蓋に 内容が記している場合があるが翻訳しても何なのかわからない。今回のバエル果汁と書いたジュースは 比較的美味しい(後で調べたら、日本ではベールフルーツティーと呼ばれているらしい)。

トイレに行くと茶色い血が若干出るので、パンツを履いてナプキンを当てることにした。

昨日からなんとなく気がついていたのだが部屋の中に小さな虫がいる。 はじめ 見つけた時はトイレットペーパーで潰した。 しかし 後から後から出てくるではないか。 よく見ると小さな蟻だ。


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私は大抵の昆虫が好きだが蟻だけは苦手だ。 蟻と分かったら素手では殺せない。 とりあえず 机の上を這っているものを2、3匹潰した。蟻の行く先を辿ると洗面所の取っ手の付け根の隙間だ。部屋の中で潰してもキリがない。 とりあえず食える食事を取るのをやめ ベッドで取ることにする。

 

入院中(手術後3日目)

20231111

悪夢で起きた。背中が痛い。布団を被って寝直す。8時前服薬、血圧測定、身体の拭き取り。同時に食事が運ばれた。恐らく今日のイベントも食事服薬血圧測定ぐらいだろう。暇だ。

傷は右側がズキズキ痛む。相変わらず咳をすると痛い。大便はまだ一度もしていない。ちゃんと出せるんだろうか。

起き上がって本を読んでいたが、右の下腹がズキズキ痛むので堪らずベッドに横になる。横になっているととりあえず痛みは収まる。

13時頃 昼食を回収しに来た スタッフに今日退院かと尋ねられ明日と答える。すると 今日の夕食をメニュー表から選ぶように言われた。 タイの料理が食べたいかと聞かれて はいと答えるとタイ料理のページを開いてくれた。 お粥のようなものを選んだ。


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デザートも選ぶように言われた。 何かわからないが 生姜の何か と書かれたものを選ぶ。


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スタッフは 部屋から電話をかけ 出て行った。


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16:30頃通訳のNさんが一人で病室に。どうですかと聞かれたので、じっとしていたら痛くないが歩くと痛むと伝えた。大丈夫だと聞いています、とのこと。まだ便が無いこと、便意がないことを伝えると、ナースに伝えておきますと言われた。明日の13時頃退院の予定という。精神科の払い戻しをしますとのこと。

Nさんが去ってから思い出したが、あと一泊病院の別の部屋に泊めてもらうということになっていた。話は通っているのだろうか。

21時すぎ、いつもの抗生物質に加えて、排便を促す薬が渡された。白いどろどろした液体を10mlぐらい飲んだ。

 

入院中(手術後4日目)

20231112

早朝から 血圧測定 服薬 体拭きが始まる。今日は退院の日。昨日の晩 寝るのが遅かったので 8時頃までベッドの上でじっとしていた。 腹が張っている。 便意を感じる。 術後 まだ一度も大便が出ていない。 踏ん張ると痛いので出ないなら出ないで良いのだが一発目が難産になるのは怖い。トイレに行って出そうな気配はあったが最後の 踏ん張りが効かず 諦める。 一度 部屋に戻って 朝食についていたインスタントコーヒーを入れた。


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そこでまた出そうな気配がしたのでトイレにこもる。やっと出た。 退院前に出てよかった。朝食を少し食べた。動いたほうが良かろうと思って部屋をうろうろしていた。9:15頃再びもよおす。もう一度便が出た。腹の突っ張りがなくなってかなり楽になった。

11時頃、執刀医A先生、通訳のIさん、他スタッフ2名が病室へ。傷口の様子をA先生が見る。乾燥しているという。便が出たことを報告。ホテルに戻って便が出なければヨーグルトを食べるように言われた。膣から血が出るか聞かれた。茶色い血が少し出ると答える。茶色ければ大丈夫という。赤い血がたくさん出たら病院に来るように言われた。また、激しい運動は控えるようにと。防水テープを貼ったあとはシャワーを浴びて良いが1ヶ月間浴槽に使ってはいけないという。せっかくIさんがいらっしゃるので今日病院に泊まる手続きは出来ているか尋ねた。看護師さんが手配してくれるそう。また、ヨーグルトも頼んでくれるという。防水テープに張替えが終わったら自分の服に着替えるように言われた。回診が終わってすぐ看護師さんが防水テープに張り替えに来てくださった。初めて傷を見た。幅10センチぐらいの縫い跡がある。これでシャワーを浴びてよいですと言われた。少し時間がありそうなので退院前に浴びることにした。

バスタオルは回収されてしまって無いので持参した手ぬぐいを使う。シャンプー、リンス、ボディソープなどは備え付けてある。リンスはすごく良い匂いがする。4日ぶりの入浴。髪が脂ぎっているので念入りに洗う。スッキリした。出ると食事が運ばれていた。

13時前腹痛があってまた排便。よっぽど下剤が効いているらしい。しかし外から見ると下腹が張ったままだ。

退院に向けて荷物の整理、着替えをした。スリッパを履き替える。厚みがあって履きやすいスリッパだった。本を読んで待つ。


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13:45頃、看護師さんと通訳のIさん来室。薬の説明と再診の日程確認がされた。毎食後、寝る前一錠抗生物質を飲むこと。痛みや熱があるときは痛み止めを飲むこと。数分後別のスタッフとIさんが再び来室。払い戻しのため精神科の領収書を出すように言われた。また「仮の領収書」と言われていた手術の領収書も渡す。正式な領収書と、診断書(精神科医の診断を経て子宮卵巣摘出を行ったことを証明する文書)、血液検査の結果が渡された。パスポートを確認された。今日の宿泊代1000バーツを現金で支払った。数分後精神科の診察代が現金で払い戻された。7500バーツ。そして9階の病室から10階の「ホテル」に案内された。9階のスタッフたちにバイバーイと見送られる。


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「ホテル」は広々した快適そうな部屋。12時までに出て鍵は同じ階のカウンターに持っていくように言われた。


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今日は近所のモールまで散歩して終わりにしよう。

 

「ホテル」メモ

病院の10階の宿泊部屋を病院スタッフたちはホテルと呼んでいる。一泊1000バーツ。風呂、トイレ、ベッド、冷蔵庫、机、テレビ、ソファ、エアコン、コップ、ストロー、ゴミ箱、時計がある。枕元にコンセント有り。バスタオル、シャンプー、リンス、ボディソープ、トイレットペーパー有り。あとはほぼ何もない。ハンドタオル、石鹸、歯ブラシ、電気ポット、ティッシュなし。金庫があるが閉まっていて開けられなかった。冷蔵庫に水が入っているが無料かどうか分からない。この部屋も小さい蟻が侵入している。

 

退院後(手術後5日目)

20231113

病院10階の「ホテル」で目覚める。悪い夢を見た。12時までに退室するように言われている。今日泊まるホテルのチェックインが14時からとのことなので、12時近くにここを出て、コインランドリーで洗濯し、適当に時間を潰してホテルに向かうことにしよう。タイは道が悪く横断歩道も少ない(その代わり歩道橋がある)ので、荷物を持っていては何処にも行きにくい。


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12時までにシャワーを浴び、病院内のパン屋でサンドイッチとコーヒーを頂く。カニカマサンドが甘い。病院内にはカフェ、食堂がある。フルーツやトウモロコシも売っている。


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精神状態が良くないので、処方された抗生物質の他、術後初めて抗鬱剤を飲む。

12時に部屋を出る。日本語を話す3人組と同じエレベーターに乗った。小さな歩幅でゆっくり歩く。回復していっているのを感じる。まだ内臓が痛いが、歩ける。激しい動きは怖くてできない。

 

「ホテル」を出た。コインランドリーにて洗濯。待っている間にコインランドリーのレポートを書く。これは別記事にする。


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歩くのが遅いせいもあって、乾燥まで終わったとき既に13:30近い。ホテルにメッセンジャーで連絡し、チェックインの方法を確かめる。入院前と同じ部屋らしい。階段を荷物を持って上がらなければならない。術後の様子を見てホテルのスタッフに手伝ってもらおうかと考えていたが、自力で持てそうなので特に助けは要請しなかった。

洗濯乾燥が終わった。向かいのBigC(ドラッグストア)に寄ってサンダルを買う。89バーツ。大きいお札を崩したかったので1000バーツ札を出したが問題なく支払えた。


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ホテルまで歩く。部屋は3階。エレベーター無し。スーツケースは体感で10kg弱ある。なるべく握力のみで持ち上げるようにして階段を上がった。

 

荷物を置いて一息ついた。船でシリラート博物館に行ってみることにした。観光レポートは別記事にする。

19時頃ホテルに戻った。少し船酔いした。お腹の調子も悪い。お腹を下した。下してしまえば楽になった。

ホテルからメッセンジャーでいつチェックインするか、と連絡が来ていた。14時にチェックインを済ませた、と送ると、明日か?午前2時?と、何か齟齬がある様子。今日の午後2時と念押しすると連絡が無くなった。

 

再診(手術後8日目)

20231116

予約表に、9:00に来て5階の受付で予約表を渡してください、と書いてある。8:50に到着。5階のエレベーター降りた左手のCosmetic Gynecology Centerのカウンターで予約表を渡して待った。9:05通訳のIさん現る。看護師さんに、なぜ1階で知らせなかったのかと言われた。予約表に5階に来るように書いてあったから、と答えた。体重測定、血圧測定。痛いか、我慢できるか聞かれた。待合室に戻った。Nさん現る。精神科の診察代の払い戻しは済んでいるか確認された。

診察室に呼ばれた。診察台に寝て看護師さんが傷口の防水テープを剥がす。傷口にはもう一枚テープが貼ってある。待っていると執刀医A先生がやってきて傷の周りを軽く手で押さえて様子を見る。看護師さんが全てのテープを取り除く。消毒してから新しい防水テープを貼り直す。これは4日間貼ったままにして、それ以後は剥がして構わないということだった。1ヶ月間温泉、風呂は入らずシャワーにするように言われた。

診察台から降りてA先生と面談。摘出した子宮卵巣に癌は無かったという。手術の2週間後からホルモン注射をして良いとのこと。少しの出血は問題ないが、月経のときぐらい出血したら産婦人科に行くようにとのこと。こちらから質問がないか尋ねられ終了。

会計までの待ち時間にIさんと雑談していて、おすすめのヤードム(嗅ぎ薬。タイでは多くの人が使うらしい。コンビニでも薬局でも手に入るという)を聞いたら、暇なので後で一緒に買いに行きましょう、と仰る。会計を済ませたあと一緒に病院の隣のコンビニへ行って、Iさんのお気に入りを買った。

また、雑談の中でアテンドさんとの関係の話を聞いた。ヤンヒー病院に通訳者がいるという情報が日本であまり広まっていないのでアテンドさんを通す人が多いと思う、という話をした。ツイッター、HPで情報を拡散するようにします、とのこと。病院に連絡するときに通訳者に回すように書いてくれれば日程やお金のことは日本語でやりとりできるという。私が病院に連絡したときは英語で書くように言われた、と言うと驚いてなんでだろう、と仰っていた。

Iさんに見送られ、通院はこれで終了。10時前だった。帰ってから、Iさんのツイッターアカウントを聞いておくんだった!と後悔する。病院の敷地内の祠もこれで見納め。


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「私たちは常に生理とともに生きている」ということ

「経血が脚を伝って流れるままに走ったのは、この通り生理は存在していて、私たちは常に生理とともに生きているのだと訴えるためだった」

月経はまるで存在しないかのように、忘れきってしまえるかのように振る舞うもの、というのが人々の常識になっているように感じる。実際は、人によって、本当に忘れきってしまえる人、たまに思い出す人、思い出さざるを得ない人などなどがいるだろう。少なくとも月経を経験している人たちは、「次はいつだろうか」「あの日に重ならなければ良いな」「遅いな」「最近多いな」「今回は短かくて良かった」「クソ、なんで今日なんだ」「次はどこでナプキンを変えよう」「タンポンは何時までは持つはずだ」「あと何回来るだろう」「おかしい。病院に行かなきゃ」などなど日常的に考えているだろう。

 

月経の話が普段話題になることは殆ど無い。外国のガイドブックを見ても、その国の食事、気候、宗教、言語などは載っていても、その国の人がどうやって月経の処理をしているか、月経についてどんな慣習、習慣があるかなどが取り上げられることはまずない。人口の約半分の人が経験し、経験する人にとってはこんなに日常的で当たり前のことなのに。

 

隠されているということだろうか。少なくとも私からは、この日常性に比して不自然に見えにくいように思う。ピルで月経の来る日を調整できるということを知ったのは、20歳ぐらいで親友に聞いたときだった。月経を止める処方薬もあるらしい。そんなこと数日前(28歳)まで全く知らなかった。「閉経」を知ったのは26歳ぐらい。月経カップを知ったのも27歳ぐらいだ。こういう重要な情報が、必要な人には見えているのだろうか。

 

月経について忘れきってしまえる人が忘れきったままでいられるように、月経なんか存在しないかのように皆が振る舞うように、実は忘れきることができない人に強いているんじゃないだろうか。忘れきった人も社会の一部を構成していて、(実際はたぶんそういう人が大部分の)社会の構造を築いている。こんなに分離しちゃって社会は大丈夫だろうか。歪みが出てるから生理休暇とかが最近話題になっているんだろうが...それは大事な一歩だけど、一方で、もっと、日常性を共有しなくちゃ、あまりにも多くの人と人が離れすぎないか。人口の約半分の人が経験するんだから。人間の社会ってこんなもんだろうか。

『「私は女で生まれたこと」を忘れることができない』の訂正

前の記事に「私は女で生まれたこと」を忘れることができないと書いた(女で生まれるということ - あるトランスジェンダーの世界Marion.K)が、これは偽りである!

私は埋没─私がトランスジェンダーだと知っている人もいなければ気が付いている人もいない生活─していた間、ほとんど「女であった」ことなんか忘れていたではないか!

埋没してしまってから、トランスであることで不自由を感じることはある。しかし自分の身体、ジェンダーの悩みはその他の悩みに比べて取るに足らない問題だった。私のジェンダーが社会に「作られた」ものであるかもしれないとは考えるが、それは大した問題ではない。確かめようのないことだと受け入れている。

身体に対する嫌悪も殆ど忘れていた。私は「男」とジェンダリングされることを、それが人との関係に大きな問題とならない限り、拒否するつもりがない。べつにどう見られても良い。

私は感情を誤って解釈したのだ。問題は別のところにある。

「性同一性障害」と「診断」する医師との関係

大学生の頃、名を変更するために「性同一性障害」の診断を貰おうと決めた。調べると近くの大学病院には専門の精神科医がいて診断を受けられることが分かった。しかし紹介状がないと初診時に5000円余計にかかる。そこで、自分の通っている大学の保険センターに所属する精神科医に紹介状を書いてもらおうと思った。「性同一性障害」は専門外であるその医師との面接は、「性同一性障害」を私が説明するところから始まった。医師は、自分は幸い心と体の性が一致しているが興味があるから聞きたいと言い(私は「性同一性障害」を「心」と「身体」の性の不一致、と説明したつもりはないが)私にいろいろ尋ねた。医師は婉曲的表現を使って、マスターベーションはするのかと私に質問した。緊張していた私は大真面目に答えた。それがおかしなことだと気が付いたのは数年後だった。医師が興味の為に診断と無関係なプライベイトな質問をする。私は紹介状を貰うために答える。

紹介状をもらって「性同一性障害」を専門に扱う精神科医の診察を受けることになった。一通りの面接と検査を終え、私は改名するために診断が欲しいと医師に伝えた。医師は条件を出した。親に言うこと。私は嫌だと言った。なぜ私の名前を変えるのに、親が出てくるのか分からなかった。しかも私は成人している。しかし医師は「親と音信不通」でもない限り親に言うことが条件だと言った。譲らない医師に対して、診断書が必要な私が折れるしか無かった。親に伝えたことを次の診察で言うとすぐに「性同一性障害」の診断が下された。

生殺与奪を握る医師に対してどういう態度を取れば自分の望む応酬を得られるか私は知っている。医師と「被治療者」の間に権力の不均衡がある。

女で生まれるということ

幼いころこんなことを考えた。私は強盗が怖い。強盗は家に入って被害者を脅す。被害者は怯える。被害者は弱い。強盗に立ち向かうには、強盗と同じぐらい怖い存在になれば良いのではないか?もし、強盗が家に入って、偶々別の強盗に出くわしたらどうなるだろう。強盗は怯えて退散するかもしれない。じゃあ強盗が入ってきたら、自分も強盗のふりをしたら良いのではないか。自分も強盗になってしまえば他の強盗が怖くなくなるのではないか。

性暴力というものを知ったとき、私は絶望的な感覚を覚えた。レイプされるのは女で、するのは男で、それは決して覆らない関係であること(実際には男がレイプされることもあるが、女がレイプされるほうが圧倒的に多いという現実は覆らない)、そして自分が「される」側に属しているということに絶望した。私はこの事実を忘れたかった。日本は安全な国で、男女平等が建前で、自分が被害に逢う確率は低い、自分は被害を避けられる、そう思い込むことにした。

 

しかし「女であること」に絶望させられる要素はそれだけではなかった。小さいころ、叔母さんが職場で「男だったら良かったのに」と言われたという話を聞いた。仕事ができるのに女だから昇進できなかったらしい。社会では女ばかりが家事労働をしているということを知った。出産、月経という男と比べて圧倒的な負担が女に課されていることを知った。売春という産業があり、女は消費の対象であることを知った。女子高校生はJKと呼ばれ、性的消費の対象と見られていることを知った。妊娠「させられる」人がいることを知った。高校生になると、自分が性的な目線でまなざされていることに気が付いた。「男女平等」が幻想であることに気が付いた。大学生ぐらいになって、学問・法律・社会制度などが男性中心的であることを知った。女は軽んじられている。町中の広告のアニメ絵がどれもこれも女の乳房を強調している。社会では女を客体化することに麻痺している。そしてその状況に気が付いている人が全然多くない。この社会で「女である」ことは絶望でしかなかった。

 

男でありさえすれば、それだけで、これら抑圧の全てから自由になるのか。なんという社会だろう。耐えられない。私は現実から逃避したかった。しかし他の人たちは平然としているように見える。私だけがおかしいのだろうか。ある時、「性同一性障害」を知った。ああ、私だけがこの抑圧に苦しんでいるように思えるのは、私が特殊な人間だからなのだ。そう理解することにした。

 

私が周囲に「男」と認識されるようになってから、「女であること」の抑圧から解放されたように感じた。「トランスであること」によって生じる不自由さは、「女であること」で感じる抑圧とは比べ物にならないほど軽いものに感じる。社会で女に加えられている抑圧のことをできるだけ無視するように、忘れることで逃避してきた。

 

アフリカや東南アジアで女性がどんな困難に直面しているかという情報に触れたとき、女に生まれることの絶望を思い出してしまった。女に生まれたというだけで、蔑まれ、月経を恥と感じ、自由がない。片時も「女である」ことを忘れることができない。もし自分が彼らと同じ立場だったら深い深い絶望を感じるに違いないと想像した。それに対して男は男であるというだけでその絶望を想像すらしない。平然としている。なんという世界だろう。

 

トランスの「男」として生活している私の場合「トランスであること」よりも「女であること」による社会的な抑圧のほうが遥かに重く感じられる。これを私が言うと「あなたがトランスだから女であることがつらいのですね」と言われてしまう気がしてうまく言えない。「女であること」によって絶望を感じさせる社会でなかったら私が自分をトランスとしてアイデンティファイしなかった可能性を私は完全には否定しきれない。

 

2023/11/04追記

『私は「女で生まれたこと」を忘れることができない』はたぶん間違い!修正を要する!正しく分析できる状態でなかったので間違えた!後日修正する!

 

私は「女で生まれた集団」に属しているという意識が、「トランス」という集団に属している意識よりも強烈にある。私は自分を「トランス」よりも「女で生まれた集団」の一員として自分をアイデンティファイする。私は「女で生まれたこと」を忘れることができない。「女で生まれたこと」が私を形作っている。おそらく「シスの女」と呼ばれる人たち以上に強く「女で生まれたこと」を意識している。

「女で生まれた」意識が強烈すぎるためにトランスせざるを得なかったのか。それとも、トランスであるからこそ「女で生まれた」意識が強烈になったのか。どちらが現実を言い当てているのか私には判別がつかない。

自分をいつトランスと認識するのか

私がトランスジェンダーだと打ち明けると、「いつからそうだと感じていたの」と聞かれることがある。実は私にも分からない。私は幼少の頃から、「性役割」というものに違和感を覚えていた。ランドセルの色が性別で決まるって変じゃないか。教室で席替えの時男女で分ける必要はあるんだろうか。男と女の違いなんて、ちんこがあるかないかぐらいなのに、どうしてみんな、こうも男か女かに拘るんだろう。

私が6歳ぐらいで既にジェンダーロールを相対的に捉えていたからといって、私が自分の性別に違和を持っていたとは言い切れない。親の影響で「男女は平等なんだ」と真剣に信じていたに過ぎないかもしれない。小さい頃は親の言うことはだいたい正しいと思っていて、学校の先生の言うことでも、「男女平等」に反することは間違っていると思っていた。私はいわゆる「男の子のような恰好」をしていたけれども、それは親以外から期待されるよく分からない規範に対する反抗を表したかっただけかもしれない。ジェンダーロールをすんなりと受け入れられない、懐疑的になる、というのはシスジェンダーフェミニストだって同じだろう。

 

中学生になる前だったと思う。テレビで、ある女性アスリートを特集していた。試合で勝つためにコーチに薬を飲まされ続け、その結果体が男性化してしまったという人だった。その時初めて、薬で女の体が男のような体になることができるんだと知った。私はいつか自分にそのようなことを起こそうと漠然と思った。

中学生になって、保健室の前に「性同一性障害」を紹介するポスターが貼ってあるのを見た。それを読んで、ああ、私は「性同一性障害」なんだ、と理解することになった。身体を男性化することをなんとなく望んでいたし、自分の身体の女性的な特徴を嫌悪してもいた。理由は今でもはっきりしない。後述するように、社会が酷く女性差別的であることを知っていたことが関係したかもしれない。このころの女性差別に対する私の意識については別の文章(女で生まれるということ - あるトランスジェンダーの世界Marion.K)に書きたい。

 

 

中学、高校の制服が嫌だった。「性別」というものに異常な執着を見せる社会が理解不可能だった。これは「性差別」あるいは「性同一性障害の人に対する差別」、子どもの服装の自由を奪う権力の横暴なんだ、と思って憤っていた。制服が嫌だということを、「性同一性障害だから嫌なんだ」と解釈されたくなかった。「男になりたい女」と思われるのは屈辱だった。特に男にそう思われるのは耐えられなかった。だから私は他人に「性同一性障害」だと思われたくなかった。

 

高校一年生ぐらいで、「トランスジェンダー」「性自認」「ジェンダー」「性的指向」という言葉を知った。この時に知ったこれらの言葉の意味は現在の私が使うものと違う。当時は、「トランスジェンダー」を「生物学的性と性自認が違う人」と理解した(今は、出生時に割り当てられた性以外の性で社会生活を送る人という意味で使う)。「性自認」の意味ははっきりしなかった。

 

私は自分を「男」と「自認」したことはない。「性を自認する」ということの意味が分からない。それでも自分を「トランスジェンダー」と理解したのは、自分の身体の女性的な特徴を嫌悪していたからだった。身体の嫌悪こそが、私がフェミニストであるだけでなくトランスジェンダーであることの唯一の根拠だと考えた。私は「男」ではないが、「女」ではない何かなのだ。このころからはっきりと、「トランス」することを決めていた。20歳になったら身体移行を始めた。何の迷いもなかった。見た目の変化を周囲にどう思われるか、どう説明したらよいか気にしながらも、私は解放されていくような気がした。

 

しかし、それから確か2、3年経ったころ、ある疑念が生じた。20歳ごろに、この社会が隅々までジェンダー化されていることを理解した。「女は作られる」。社会は女性差別的である。私のあらゆる思考─深層心理まで含めて─はそういう社会に規定されている。もし、女性差別的でない環境で私が自己を形成したなら、果たして私は自分をトランスジェンダーだと理解しただろうか。トランスジェンダーインターセックスとは別の概念である。インターセックスは、雌雄両方の羽を持って生まれてくる蝶のように、身体の外面(染色体、外性器・内性器の形など)が典型的な男や女のどちらかに分類できない状態で生まれてきた人のことをいう(インターセックスの人の多くは自分を男や女にアイデンティファイするらしい。トランスとアイデンティファイする人も当然いる)。私は典型的な女の外面を持って生まれたのでインターセックスではない。社会が私を形成する過程で、自分をトランスジェンダー─女ではない何か─と理解するようになった。自分を生まれつき「女ではない何か」だったと言い切ることはできないのである。

こんなことを言うと、私をトランスでないとみなす人がいるかもしれないが、私は「女でない何か」で生きるしかなかったという意味で自分を「トランス」と表現する。